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ショート小説コンテスト『食堂~惜しまれながらも店じまい~』

仕事が思ったよりも長引き、急ぎ足で最寄りの駅に向かっているあいだに、日はほとんど落ちてしまった。汗でワイシャツが濡れて気持ち悪いが、冷房の効いた車内を思い浮かべることで何とか耐え忍ぶ。何しろ今日を逃せば二度と機会は訪れないのだ。あの店は明日には無くなってしまうのだから…
たまたま近くを通りかかったときに、偶然ガラス戸の張り紙が目に留まり、どうしても行っておかなければと思ったのだ。大学時代に随分と通った店の存在すら忘れていたにも関わらずである。

やけに滑りの良い引き戸を開けて店に入ると、微かに酒臭いむわっとした空気に包まれる。常連客が集まって宴会でもしたのだろうか、店の大部分を占めるカウンター席の上は発泡酒の空き缶や食器で多くが埋まっていた。地域の人々に愛された食堂だけに、閉店を惜しむ人々は多いのだろう。「いらっしゃい」という声が聞こえたので、比較的片付いている隅の席に座る。どうやら閉店の時間には間に合ったようだ。
「ご注文は何にいたしますか」と、差し出された冷水に口をつけた僕に店主が尋ねる。
「こんな遅い時間にすみません。今作れるものって何ですか?」
「とりあえず揚げ物以外なら大丈夫ですよ」
僕は壁のメニュー表を眺める。
「じゃあ、豚野菜炒めと、ごはんで」
店主が中華鍋を取り出す。先代の店主から店を受け継いだ三十代半ばくらいに見える若い店主の動きに、つい見入ってしまっていた。
「豚野菜炒めと、ごはんです」
焦げた醤油と油の匂いに食欲をそそられる。思わず口に運んだ僕の頭の中に、足繁く通っていた大学時代の思い出が鮮烈に甦る。我に返った頃には、ひとりでに口が動いていた。

「全部!全部思い出したわ!!やっとできた彼女が友達に寝取られて、泣いてぐしゃぐしゃの顔でしゃくりあげながら食べたあの味じゃねーかふざけんな!あいつは何でもかんでも!横取りして行きやがったんだ畜生!思い出したくもない!!」

記憶の底に封印していた最悪の過去であった。なおも叫びを上げようとするが、ふと、こちらを向いた店主に気付き、途端に申し訳なくなる。
「…もう止めます」
店主は何とも言い表せない中途半端な表情で、静かに言った。
「どうぞ続けてください」

仲が良いと思っていた友人が、初めてできた彼女に手を出したのだ。彼と知り合ってからの過程を思い返した僕は「自分にとって彼は親友だったが、彼にとって自分はただの引き立て役に過ぎなかった」という事実にようやく気付き、ほどなくして大学生活が終わった。
「大学四年間を、あのクズ野郎を引き立てる装置として費やした訳ですからね。思い入れどころか人生の恥部ですこんな店。そもそもどうして来ようなんて思ったのか疑問ですよ」
しばらく沈黙が流れた後、今まで誰にも言えなかったんですがね、とおもむろに店主が口を開いた。
「うちの父親、俺が継ぐと分かると急に厳格になったんですよ。何かミスをすると『気持ちが足りない』やら延々と怒鳴るので教え方に疑問を持って、理由を聞いたら『自分は先代からこう学んだ』の一点張りで。そうしてやっと一人前に料理を作れるようになっても、馴染みの客は『ちょっとは上手くなった』『まだまだ先代には及ばない』の繰り返しです。正直、理解あるアニキ面してんじゃねーよと思うし、こっそり父親の料理を出しても同じセリフ言ってましたからね。今日も、」
店主は雑然としたカウンター席を一瞥する。
「店が無くなるから寂しい、なんて言って好きなだけ騒いで帰って、後の処理はお前がやれですよ。こっちはひたすらお酌させられただけなんですがね。周りの人の需要に応じて続けてたけどもう限界。今日でおしまいです。奴らの顔を二度と見なくて済むと思うとせいせいすらあ!」

ここまで一息で喋り続けた後に、憑き物の落ちたような顔で店主は言った。
「あなたが最後の客で本当に良かった。ありがとう。」

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